学生リレーエッセイ

2021.06.03  <学生S(2021年6月3日)>

 コロナ禍において、余暇時間の使い道の選択肢は、かなり絞られたように思う。大学の授業もオンライン授業になったため、コロナ禍以前よりも家の中で過ごす時間が圧倒的に多くなったと思う。家にいる時間が増えたことで、生活の中心に家があることを改めて実感しているところである。

 私がゼミで報告した多摩川水害は、破堤して住宅地に流れ込んだ川の水が住宅を押し流していったというものだった。また、ゼミ旅行で伺った八代市坂本地区では、あふれた水で押し流されてしまった家や、浸水し住むことができなくなった家が多くあった。毎日過ごしてきた家が一瞬で姿を消してしまうということが、どんなに悲しく、つらいのだろうかと感じる。私は熊本地震を経験したが、両親ともに実家が被害の大きかった地区にあり、どちらも取り壊し、建て替えることになった。私自身は祖父母たちが新しい家で安全に暮らせるようになると安心した気持ちが大きかったが、長年住み続けてきた祖父母や、そこで育ってきた両親は寂しい気持ちがあったのだろうと想像できる。災害でのつらさは比べられるものではないが家を流されてしまったとき、取り壊すときと同じように、あるいはそれ以上に喪失感を感じるのではないか。

 しかし、この大きな喪失感とは裏腹に、被害を文字であらわすととても淡泊だ、と感じる。先日多摩川水害訴訟最高裁判決についてのレジュメを読み上げたときも、「家屋19棟が流出した」と平然と読み上げていたような気がする。また、安全な地域に移動すればいいのではないか、と簡単に考えてしまう自分もいた。もちろん判例報告では客観的に事実や判旨を検討することや、様々な可能性を考えることが求められるが、対象となる事実には被害を受け、苦しんだ、もしくは現在も苦しんでいる人がいるということを忘れてはならない。このことを、ゼミ旅行で改めて強く認識することができたように思う。

 ゼミの判例報告では私たちは法律という観点から事件を検討するが、私たちの学習の究極の目的は、苦しんでいる人に寄り添い、また、同じように苦しむ人が一人でもいなくないような社会をつくることといえるのではないか。そうであるならばやはり当事者の心情を想像し、寄り添う姿勢がとても重要である。大学生活も残り少なくなってきたが、当事者の心情や状況を想像し、寄り添う姿勢を常に忘れずに学んでいきたいと思う。