学生・教員リレーエッセイ

2020.09.01  <教員T(2020年9月1日)>

 毎日、暑い日が続いております。突然の雷雨に洗濯物を取り込む今日この頃です。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか?
 今年は、コロナの影響により従来のオープンキャンパスを開催することが出来ませんでした。そこで、少しでも大学の雰囲気をお伝えできればと、インターネットの会議システムを利用した、ネット・イベント・法学部Webオープンキャンパスを企画しました。
 7月には高校3年生を対象にした法学部フェスを開催し、現役の大学生が感じている法学部の魅力をお伝えするイベントを行いました。また、8月には、インターネットを介した法学部説明会を行いました。多くの高校生が参加してくれましたことに感謝いたしております。(是非、法学部Webオープンキャンパスのページをご覧ください。)
 さて、毎回、エッセイでは、法学部に興味を持って頂きたく、何かのきっかけになればとの思いで綴っているわけですが、今回は、「世間」話などしてみたいと思います。
 刑法学者・佐藤直樹氏の『「世間」の現象学』(青弓社、2001年)によれば、「世間」というキーワードは、「世間体」、「世間に顔向けできない」、「渡る瀬世間に鬼はなし(ドラマのタイトルじゃないよ)」など、日々の暮らしの中でも頻繁に使われている言葉ですが、学術的に「世間」を研究している人は、実は意外と少ないのだそうです。これまで、学術的に探究されてきたものは「社会≒society」という近代の概念で、しかも、自律した個人を前提とした「社会」は成立しておらず、日本に存在しているのは、それとは異なる「世間」なのだそうです。そして、国民主権国家である日本には未だ「自律した個人」は誕生しておらず、いわゆる西欧流の自己決定や意思決定は存在していないというのです。
 確かに、法的思考において極めて重要な役割をはたす意思決定のはずですが、例えば犯罪においても、確固たる意志に基づき犯行を決行する事例よりも、「いつのまにか」とか「なぜだか」とか、周りに影響されて犯罪に手を染める事例のほうが日本では珍しくないように思います。自ら考え抜いて決断したのではなく、なんとなく周りに引っ張られてしまっている現実が日本には確かにあるように思います。
 この点は、最近のコロナの影響を受けた「世間」が生み出す圧力として、劇作家・鴻上尚史と佐藤氏の対談をまとめた新書、『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社、2020年)に書かれていました。
 自律した個人が主権者として存在する「社会」を前提としている世界観において、日本型の同調圧力を生み出す環境(人間相互間の関係性)を何と名付ければよいのかと考えたとき、確かに、「世間」という日本語の持つ印象はとてもなじむ感じがしました。(同調圧力の源を何と呼ぼうかと考えたとき、常識とか、しきたりとか、伝統とか、当たり前とか、社会通念とか、いろいろ思い浮かびました。)
 関連して、他律・自律というキーワードで、思い出したのが、今回の芥川賞作品・遠野遥『破局』(河出書房新社、2020年)です。読み終わったあとの「さわやかさ」が大好きな私には、何とも、苦い味にも思えましたが、もしや、良薬?それとも......? なんとなく、主人公の語り口から連想したのが、ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』(阿部六郎訳・新潮文庫)の一節、「すべての美徳は特権を持っている。たとえば断罪された者の火あぶりの薪に自分の小さな一束を提供する特権」、そして、「人間に道徳的と不道徳的、善と悪を区別するに至らしめた根本対立は、『利己的』と『非利己的』ではなく、しきたり、掟に結びつけられていることと、そこから解かれること......。とにかく善悪とか何か内在的な至上命令などが顧慮されているわけではなく、何よりも先ず一共同体、一民族の保存を目的としているのだ、偶然の謬った解釈を基として発生したすべての迷信的慣習が一つのしきたりを強制する、これに従うのが道徳的である......。しきたりはしまいには神聖なものとなって畏敬の念を眼醒ます」でした。「世間」って......???。
 かくいう私も「世間」様のおかげですと感謝しつつの日々ですが、法理論として、主権者である個人を価値の根源に位置づける「自由≒リバティー」を探求しようと試みたならば、個人の「自由」は、自己の思考によって導かれた価値に重きが置かれていると思います。それは、既存の価値にただ黙って従う態度なのではなく、自らが価値の有無を決定するのだという思考の解放を意味するのだと思います。
 「自由である」とは、既存の価値観(世間体とか?)から解放されて、自らが価値を決定する自由を手にしているということに結びつくのではないかと思うのですが、皆さんは、どのように考えますか?
 「思考すること」とは、言葉の意味を覚えることではありません。「思考力」とは、自分自身が感じる感覚等を言葉に置き換えたり、言葉から像や情景を心に思い浮かべたりし、その心の像を移動させ、変形させ、連想し、比較するといった一連の心的作用を、継続・持続させる力といえるでしょう。物事を感じて味わう力(糸山泰造『新・絶対学力』(文春ネスコ、2004年))なのではないでしょうか。
 もしも、ある言葉を聞いても、その言葉から情景が想像できないのであれば、それは、やはり、思考できていないこととなるのではないのでしょうか。例えば、「フリー」・「BLM」・「ヘイト・クライム」から、何を想像しますか?。「イコール」・「ディスクリミネーション」って、「ナンジョウ???」
 話しは変わりますが、カタカナ語が躍る昨今の情報を前に、知る人ぞ知る「ハンバート ハンバート」というデュオの『国語』という楽曲を聞いてみました。それは、それは、とても爽快な気分になりました。
 人間相互の関係性において、なんとなく、決まってしまっている枠組み、それは、一体、なんなのか?法学・人権論・自由論・憲法学というフィルターを通してみてみると、なんとなく、「当たり前」と思い込んでいた価値基準(例えば、レディーファースト)が、実は、全く、逆の働きをするかもしれないということに気付けるかもしれませんよ。日本の「世間」では重宝がられる「心づけ」も「近代法」の知識や、「自由」のための法的思考を磨いてみると全く異なるものに映るかもしれませんよ?どうです。法学って、なにか、謎を解き明かすための道具となりそうで、楽しそうでしょう。
 興味をそそられた方は、是非、ウェブサイト内のページを覗いてみてください。皆さんと、熊大法学部でお会いすることを、楽しみにしています。