学生・教員リレーエッセイ

2015.12.25  <舘石 宏明>

 熊本大学では英語以外の外国語も学び(学べ)ます。必修のものもありますが、その他に自由に選べる外国語もあります(独仏中以外にもイタリア語・スペイン語・韓国語・ロシア語・ラテン語・ヘブライ語などもありますよ)。
 さて、英語以外の語学の手ほどきは発音の授業から始まります。特に私の担当するドイツ語は英語ほど発音が複雑ではないので最初に発音のあらましを習うのが通例です。とはいえ初めて習うのですからそれなりに大変です。例えば:Bachは「小川」という意味で「バハ」と発音する、したがって音楽家のバッハは「小川さんである」と言うと皆さん微笑んでくれますが、この「ハ」は日本語の「ハ」ではなく、喉から息だけを強く一気に出す音、さあやってみましょう、となると微笑みはどこかに消えてしまいます。最初はダメなので今度は「窓を曇らすためにハッとやるときのハッ!」と説明します。まあ、大学生になりたてなので困惑しながらも真面目に練習してくれます。元気な学生M君は次の説明に移ってもまだ「ハッ、ハッ」とやっていますね。よほど楽しくてしょうがない、という感じです。そう、日本語にはない言語音を発音するのは本来楽しいもの、と私も思います。生まれたばかりの子供はあらゆる言語音を発する能力があるといわれていますが、日本語の環境に馴染むにしたがって、その能力を失ってしまうのです。母語を学ぶということは一面では本来人間の持っている潜在的可能性を殺してしまうことでもあるのです。だから、大人になって外国語を学ぶ喜びは、硬直した唇を大きく小さく横に縦に動かしたり、舌を丸めたり伸ばしたり上下に叩いたりしながら、この失った可能性を取り戻そうとする喜びかもしれません。少し大袈裟ですが、失われた自己、内なる他者の発見の旅に出かけようとしているのかもしれません。
 さて、世界には3000ほどの言語があるといわれています。言うまでもなくその一つ一つの言語には固有の表象世界があるわけです。大学における外国語学習はそうした母語とは異なる表象世界を学ぶことにあると信じたいものです。英語といった大言語であれ、少数民族の、あるいは消失の危機にさらされている言語であれ、皆固有の世界理解を行い、またそのことにかけては平等であるはずです。単に覚えてたら得する道具としてマスターするだけでなく、謙虚に他者に向い合い、異なる他者を理解しようしたいものです。あるいは道具というなら例えば次のようなことを考えてもよいと思います。EU(欧州連合)ではすべての参加国に存する言葉をEUの公用語とし、母語を含め最低3つの言葉を個人が知っている状態を目指す言語政策が進行中です。これは「複言語主義(Plurilingualism)」と呼ばれています。よく聞く言葉に「多言語社会」というものがありますが、これは一つの地域に複数の言語がある状態を指す言葉です。ここには、自国語/民族語/外国語という国家による言語のランク付けが含まれてしまいます。それに対し、複言語主義は個人レベルにおける複数の外国語の併存状態(混成状態)を指しています。その目指すところは、言語を国家による言語のランク付けから解き放ち、個人のレベルで社会を形成するための道具とすることです。その根底にあるものは「国家ー国民」を静かに揺るがす「民主的シティズンシップ」の理念です。もちろん理念として打ち出されたものですので実際は現実の諸困難にぶち当たってばかりですが、私たちの外国語のあり方を考える参考例でもあります。
 少し咳き込んだ話しになりました。さて例の「ハッ、ハッ」のM君が、またもや別に練習を始めたようです。Rの発音です。「ガラガラのうがいの要領で、舌の付け根を振動させます」と言ったら、また熱心にやっています。どんな音か、皆さん、教室で聞いてみませんか?