学生リレーエッセイ

2022.02.17  <学生H(2022年2月17日)>

 ゼミで学ぶ意義の一つに、他のゼミ生と様々な議論を交わすことで理解を深めていくことができるという点があると思う。どうしても数十~数百人といった大人数が受講している通常講義では、双方向的な授業を目指すといっても「先生が言うことを理解して覚える」というのみになってしまいがちだ。また、やはり講義として教える部分にはなるべく偏った意見にならないように客観的な事実が中心となる。しかしゼミでは、少人数で一つの事例について深く掘り下げる事も多く、明確な解決策が決まっていない問題が出てくることもあり、議論をする際に他のゼミ生の意見を聞く機会が多かった。すると、自分が全く思いつきもしなかったような発想や、自分とは全く逆の考え方をする人など様々な意見や価値観があり、多様性を肌で実感することもできたし、自分の頭で何が正しいのか、様々な価値観が存在する中でどのような妥協点を見つけるか、など深く考えることにつながった。これは私がゼミで得た学びの中でも、特に大きなものの一つである。
 そうしてゼミを通して議論を重ねていく中で、先生から「ディベート」と「ダイアログ」の違いについてのお話があり、その体験として実際にディベートを授業で行った。競技としてのものなど定義は様々だが、簡単に言うとディベートは「討論」でダイアログは「対話」である。自由な雰囲気でお互いの異なる意見や立場を認め合いながら対話し理解を深めていくダイアログに対して、ディベートでは異なる意見同士で討論し、いかに相手の意見を論破し自分の主張を相手に認めさせるかというのが中心になってくるのだが、ゼミで重要なのはダイアログである。
 この時、私はディベートについては知っていたものの「ダイアログ」というものを初めて知った。そして、ディベートを実際に体験して、自分に合っていて得意かもしれないと思うと同時に、私のゼミでの議論の際の言動は無意識のうちにディベートになってしまっているのではないかと考えた。異なる意見を否定しているつもりはなかったが、納得がいかない部分や引っかかる部分について受け入れて対話するというよりは、疑問点をどんどんぶつけていっていたような気がする。
 もちろん、ディベートも論理的思考力の育成やブラッシュアップの観点では重要な意味を持ち必要な場面もあるが、ゼミの中で明確な答えのない問題についてみんなで考えていく上では、異なる意見や立場を受け入れて、同意はできなくても納得はできるということが自由な議論を通して学びを深める上で重要なのだと思った。その事を少しずつ意識するようになり、自分の意見と他の人の意見が異なった時にまず自分の意見を主張するのではなく、相手の意見に耳を傾け理解しようとし、その上で自分の意見を伝えることで、同じ自分の意見を伝える行為でも対話として深まって行くことを感じることができた。「ゼミで学ぶ」という本質的な意味は、単なる勉学を超えてこのような部分も大きいと思う。